箱根関所悲話

徳川幕府が全国に設置した関所は、53箇所で「重キ関所25箇所・軽キ関所28箇所」であった。東海道では「箱根」「今切(新居)」の2箇所である。



箱根関所には、江戸口、京口の2箇所の門があり、明け六つ(午前6時)に門を開け、暮れ六つ(午後6時)に門を閉じた。管理は小田原藩で、20名前後が一ヶ月交代で勤務した。その他実務に当たる定番人(地元に居住する小禄の役人)、人見女(女性改めの役)がいた。
<箱根関所の高札>
出女 「関より外に出る女は、つぶさに証文に引き合わせて・・・」
入り鉄砲 「武具の改めは、しない」

<今切関所の高札>
出女 「往来の女は、つぶさに証文に引き合わせて・・・」
入り鉄砲 「相証文なき鉄砲は、通すべからず・・・」
いわゆる「入り鉄砲、出女」は、今切関所が厳しかった。

関所破り
「不審なる者」が関所を避けて通れば関所破りで、極刑はまぬがれない。

元禄十五年(1702)、小女お玉は、奉公先から国に帰る途中、道中手形がなく夜陰にまぎれて山を越え関所を避けたが見っかってしまった。お玉は関所破りで獄門にかけられたが、その首を洗った池が「お玉ヶ池」で今も残る。
関所破りは、それ以外にも、4件五人が確認されているという



関所破りは、広い箱根山中で容易におもえるが、じつは、周辺五箇所に脇関所(根府川、仙石原、矢倉沢、川村、谷ヶ)があって面的な監視がおこなわれていた。

関所は封建社会を支えた制度であつたが、明治2年2月11日に廃止され自由通行となった。