箱根物語

「箱根の山は天下の嶮」と歌われたように箱根の山々は、三重式のカルデラ(噴火後のくぼ地)があり、新旧2個の外輪山と7個の火山丘からなる複雑な山容である。
火山群のおかげで古来より温泉に恵まれ箱根七湯、今は十三湯といわれ、カルデラ湖の「芦ノ湖」とともに観光名所、東京の奥座敷として栄えた。


この観光資源をめぐって、戦後の復興期に「西武鉄道の堤康次郎氏」と「東急電鉄の五島慶太氏」が箱根山開発合戦をくりひろげ、小説にもなったことは有名である。

箱根八里の山越えは、高低差もさることながら箱根山を形成するローム質土は、雨ともなれば「旅人の脛までつかる泥道」となった。


そこで最初は、道に竹をひいた。寛永元年(1624)の第三次朝鮮通信使の記録によれば「竹が敷き詰められており乾いた道を行くようであった。」という。この竹は毎年替えなければならない、担当は奥伊豆八十五カ村で人足3,000人、竹1万7,8千本必要だったという。

延宝八年(1680)幕府は公金千四百両を支出して石畳道をとした。箱根山中の道幅は、ほぼ2間であり石はその中央の1間の幅で敷き詰められた。この遺構は、今も山中諸所に残っておりハイキングコースになっている。