
泰明小学校前の「銀座の柳二世」
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銀座にも小学校はある。「にも」などと言うと、いささか失礼かもしれない。
というのも、ここは著名人達の出身校でもあるからである。島崎藤村、北村透谷、近衛文麿等がここの卒業生である。
北村透谷はペンネームに銀座近くの「数寄屋橋(すきやばし)」をもじって透谷(すきや)としたほどであるから
いかにこの地にこだわっていたかがわかる話である。
開校当時(明治11年6月18日付)の東日新聞には泰明小学校開校についてこう書かれている。
「山下町の泰明小学校はいよいよ来る二十五日開業あり。該校の玄関の上に掲げたる泰明学校の四大文字は
三条実美公の御筆にて、構内の築造、総入費は七千円外なるべしと。」
当時の七千円とは今でいうとどれくらいの価値であったのだろうか。
現在の泰明小学校前には写真のように立て札のあるたった一本の柳がある。この立て札には「銀座の柳二世」とある。
二世とはどうして?
ここ銀座は先の「銀貨鋳造所」ができた理由でもある「土地」に関係するようである。
話はまたさかのぼるが、慶長8年に神田駿河台の土を運んで埋め立てたジメジメした場所だったため、町屋にはならず、もっぱら先の職人町であった。そんな「土地」の理由から明治十年代半ばに根腐れを起こしにくく水につよい柳が並木として選ばれたようである。が、その後大正10年(1921年)に車道の拡幅工事が行われるため柳は撤去された。
二世は昭和7年に再び銀座通りと晴海通りに復活。が、これも昭和20年の空襲により8割の柳が消失してしまう。
三世は昭和23年(1948年)に復活。しかし、人間とはなんと身勝手なことか、晴海通りの地下鉄日比谷線建設のためまたもや撤去。そして銀座通りの柳も昭和43年に撤去された。
四世は昭和50年(1975年)に現在の「柳通り」に復活。そして「御門通り」にも柳が復活している。
時代にふりまわされた「銀座の柳」にこれほどまでも愛着を持ち、こだわり続けた地元の人たちの努力が、現在の「銀座の柳」を生んだのである。

泰明小学校入口
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ちなみに上の写真にある石碑にはこう記してある。
「島崎藤村 北村透谷 幼き日 ここに学ぶ」
幼少の頃の彼らは、歴史にふりまわされた「銀座の柳」をどのように見ていたのだろうか?
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