徳川家康と駿府城

静岡市(府中、駿府)の町と徳川家康は、深い因縁で結ばれている。
まずは、少年のころの今川家への人質時代である。
戦国武将になった家康は、勢力の増大とともに、領国の城下町を岡崎→浜松→駿府へと移していった。
そして大御所と呼ばれる最後の時代である。

それでは駿府城の移り変わりを見てみよう。

復元された駿府城東門


第一期の築城

天正一三年(1585)家康は駿府に入った。
天正一五年(1587)ニの丸の築城を始めた。
監督者の「家忠日記」によると
天正一五年(1587)1月26日にはじまり、17年5月26日にほぼ完成している。

しかし、天正一八年(1590)、家康の勢力拡大を恐れた秀吉は、関東への国替えを命じた。
代わって駿府城に入ったのは、秀吉の家臣中村一氏であった。

その後、家康は豊臣氏を滅亡させ、江戸に幕府を開き、天下統一の基盤を固めた。

慶長十一年(1606)3月、家康は駿府を隠居の地と定め、翌年から駿府城修築の命を出した。
慶長十二年7月、早くも本丸部分が落成し、家康が移り住んだ。
ここに駿府の城下町は、「駿府大御所時代」の華やかな時代を迎えることになった。

しかし、十二月、駿府城は、奥女中衆の手燭台の火の失火で、ことごとく焼失した。

駿府城本丸復元図 (C)内藤  昌  (株)文化環境計画研究所


第二期の築城

直ちに城再建の命令が下る。「台徳院殿御実紀」は「・・・・・京より工匠雲霞のごとく駿府に下る。・・・」と記している。天下普請の再開である。
慶長十三年(1608)8月、ついに天守の上棟式が行われた。天守は「七重」(内部七階)で、破風は銀で飾り、黄金の鴟吻をのせていた。

しかし、慶長十四年(1609)6月、放火事件が起るなど火災が多く起き工事がつづいた。

元和二年4月17日(1616)、徳川家康は他界した。

寛永十二年11月(1635)、町中の火が城中に移り、天守、殿閣などことごとく焼失した。


第三期の築城

それから三年後、ようやく再建の命が出た。しかし、再営の規模は縮小され天守は再建されなかった。
その後大きな修理も行われず荒れていた。

安政元年11月(1854)、大地震により本丸御殿は、すべて倒壊した。

後は静岡県庁


「駿府大御所時代」(1607〜 1616)は、政治、経済、文化が花開いた町で人口は約12万人(「ドン・ロドリゴ日本見聞録」より」)で,当時江戸が人口15万人といわれたところから、第二の大都市であった。

しかし、駿府城は悲運の城であった。そして現在「平成の駿府城再建運動」も起こっている。